受験・・・ショックを受けました
中学校1年生の息子が、もう学校へ行きたくないと言ったらあなたはどうしますか?
学校のみんなと同じように当たり前に塾2つを掛け持ちし、毎日部活の練習。
そんな中、息子から「お母さん、もう無理だよ」と言われた高橋真弓さん。
現在、オーストラリアにて息子さんと暮らしています。
息子の口からそんな言葉が出た時、この子には日本の教育は合わない、これ以上この生活を続けたくないと、留学センターへと向かったそうです。
17歳の頃よりジャズダンスのインストラクターとしてのキャリアを積み、その後アメリカにてジャザサイズインストラクターのライセンスを取得。シアトル、サンディエゴ、シカゴと、世界的ダンサーたちと舞台を共にしてきた真弓さんからすれば、それは開かれたオプションだったかもしれません。
しかし、日本でのキャリアも生活も捨て、並々ならぬ決意で息子と2人未知なるオーストラリアへ向かうことができたのは、そんな生き方から来る自己信頼、そして息子への信頼と、深い親子の絆があったからこそだと思います。
東京の中学校からシドニーのハイスクール(13歳~18歳の生徒が就学)への転校で最初はびっくりするようなこともありました。
バッグを盗まれたり、ケンカをふっ掛けられたり。
胸が苦しくなるほど助けてあげたいのだけれど、そこは我慢しました。
子供は子供の社会の中で知恵をつけなければいけないからです。
すぐに親や先生が子供のケンカに立ち入る日本とは違い、オーストラリアでは子供のケンカは、やらせておくというスタンスをとる親も多いことにとまどいもありました。
しかし、息子を通してそんなオーストラリアの学校生活を知る中で気づいたことがありました。
オーストラリアのケンカは単純、ストレート。なぐり合って終わりです。そういうカルチャーの中でどこまで殴っていいか、どうやって仲間を作っていくか、どう交渉していくか、という術を実践的に体得していきます。
一方日本の子供たちは、先生や親が過干渉のせいで、少しでも暴力を振るえばすぐ怒られるというのを心得ているので、陰湿ないじめに発展しやすい傾向があります。 大人に見つからないようにと、ネットを使ったいじめの発達が社会問題になっているのは誰もがご存知のとおりです。
行き過ぎたしつけは子供と親や教育者との信頼関係を構築しづらくし、問題の露見を著しく遅らせてしまうことにもつながるのです。
14歳からまったく英語もわからない状態で行きはじめたハイスルクールでしたが、オーストラリアでは多くの学校にESL (English as a Second Language)といって英語が第二言語の生徒のためのクラスが設けられ、そこで英語を習得することができました。
それから4年経ち、息子さんはまもなく大学受験。
受験に関してもまた日本とオーストラリアでは違う。
そのことを是非日本人たちに伝えたいと真弓さんは話してくれたのですが、この話に私は自分自身を振り返り、強いショックを受けました。
まず素晴らしいなと思ったのは、息子さんの高校では近隣の大学の授業を受けに行ける機会があるのだそうです。みんなでバスに乗って大学へ行き、学生に混じり同じように講義を受けます。
そしてショックだったのは、受験生としての会話。
オーストラリアの子たちは「○○大学にはこういう講義があるけど、××大学にはないよ。こっちの大学ではこういうことが学べるらしいよ。」という感じでみんな情報交換をしています。
日本の受験生はどうでしょう?
「A大学は偏差値が65、B大学は58、自分の偏差値は60だから・・・。」
ほぼこれに尽きるのではないでしょうか。
次に気にするとすれば、卒業生の就職先はどこかということ。
私は、高校を選ぶ時も大学を選ぶ時も、偏差値しか見ていなかった事実に愕然としました。
進学先を選ぶという姿勢が根本的に違うのです。
大学で何が学べるのか情報を集めたり、実際に体験してみて好きかどうか、学生たちの雰囲気は良いかどうか感じてみたりするのは、もっとも自然で当たり前のことのはず。
なのに私たち日本人にはそれが明らかに欠落しています。
いったい、なにをやっていたんだろう?
年間100万近い学費を4年間も投資するのに、何を学べるのかきちんと調べることなく数字だけで決める。
そんなとんでもないお金と時間の使い方ってあるでしょうか?
たとえ面白い研究をしている教授がいるとしても、自分より偏差値がだいぶ低い大学なら行かないというのが日本人の当たり前な感覚です。
なぜそうなるのだと思いますか?
何を学べるかではなく、ネームバリュー(=偏差値)でしか決めることができない。
それは、完全に『他人目線』だからに他なりません。
自分がどうしたいかではなく、
他人からどう思われるのか?
どう評価されるのか?
それだけが価値基準となる。
そして私たちは評価のためなら、興味のない授業も我慢して受けることができてしまうのです。
「私」はどこにいるの?
必要なのは、他人からの評価ではない。
自己信頼なのです。